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OPTPiXはこうして生まれた!ウェブテクノロジ設立物語(前編)・・・「OPTPiXを256倍使うための頁」第1回

ゲームビジネス 開発

小高近影。いまだ保存してある多数のPC-9800の前で
  • 小高近影。いまだ保存してある多数のPC-9800の前で
  • 中高時代に使っていた、SHARP PC-1211とPC-1500のカタログ
  • SHARP PC-1211 のカタログ(1)
  • SHARP PC-1211 のカタログ(2)
  • SHARP PC-1500とプリンタプロッタ+カセットインターフェース
  • 「PC-1500機械語の手引き」(1)
  • 「PC-1500機械語の手引き」(2)
  • 「PC-1500機械語の手引き」(3)
ゲーム業界のデファクトスタンダードとなった画像最適化ツール「OPTPiX imesta」を筆頭に、2Dスプライトアニメーションツール「OPTPiX SpriteStudio」、3Dキャラクターを組み合わせて漫画が描ける「コミPo!」など、幅広い製品展開を進めるウェブテクノロジ。しかし、当初からゲーム業界に関係があったわけではありませんでした。本連載では代表取締役で創業者の小高輝真氏と共に、社史と業界の動向を振り返ります。

小高近影。いまだ保存してある多数のPC-9800の前で 中高時代に使っていた、SHARP PC-1211とPC-1500のカタログ

■社名にこめられたメッセージ

ウェブテクノロジは大学院の卒業直前に立ち上げた会社です。1991年2月創業なので、今年で24年目になりますね。おかげさまで社員数も29名に増えて、アルバイトも含めれば34~5人の規模にまで成長しました。画像最適化ツールの「OPTPiX imésta」シリーズはゲーム業界だけでなく、カーナビの開発やBS/地上デジタル放送用など、幅広い分野で利用される製品に成長しました。

よく誤解されるんですが、「ウェブ」テクノロジといっても、ホームページ制作やウェブ関連のシステム開発などを行っているわけではありません。1995年ごろはよく間違われましたが…。そもそも、私が会社の名前を決めたのとWorld Wide Webができたのはほぼ同時期(1990年秋頃)のようで、当時はWWWの存在すら知りませんでしたし、知っていたとしても「ウェブ」がいまのような意味で使われる世の中になることは予測できなかったと思います。もしそれがわかっていたら、違う名前にしていたでしょうね。

もともと私は学生時代からプログラミングが好きで、趣味が高じて技術誌で記事を書いていました。そのころ読んだ書籍で、Donald Knuth氏というスタンフォード大学の名誉教授のことを知りました。Knuth氏はコンピュータ科学者で、アルゴリズムに関する一連の著作や、TeX(テフ)という組版処理ソフトウェアの提唱者として、計算機科学の世界では有名な方でした。

その人が「文芸的プログラミング」というプログラミングスタイルを提唱されていて、非常に共感したんですね。そこで中心となっていた考え方が、ドキュメントとソースを併記した「WEB」と呼ばれるメタソースを記述し、そのソースコードがどのような意味を持っているのか、誰でも理解できるようにするというものでした。

私自身、プログラマ向け雑誌に記事を書くにあたって心がけていたことは、ただ動くプログラムを作るのではなく、読者が理解しやすいように解説を付けてプログラムを書くことでした。そこで、常にドキュメントを丁寧に書くことを心がけていました。これって、まさに同じ意味じゃないかと。そこで社名に拝借して、「ウェブ」テクノロジとしたんです。

■鉄道模型をきっかけに電子工作に興味を持つ

なぜ技術誌でライターをするようになったのか。それが、なぜ起業に繋がったのか。話せば長いのですが、きっかけは鉄道模型です。子どもの頃から鉄道が好きだったので、両親がHOゲージのセットを買ってくれたんですよ。

鉄道模型は電子工作の入り口みたいなところがあって、車輌の走る向きによってヘッドライトとテールライトの点灯を自動的に切り替えるために、当時はセレン整流器などが使われていました。あるとき、模型店で「シリコン整流器」(いわゆるシリコン・ダイオード)が売られていたので、なんとなく面白そうだと思って買ってきました。ダイオードの「一方向にしか電流を流さない」という特性は理解していたので、そのダイオードを使ってなにか作れないかと思案した結果、行き止まり線路にごく簡単なATS(自動列車停止装置)を実現する装置を自作したのが、電子工作にはまるキッカケでした。小学5年生のときです。

話の方向性は変わりますが、小学6年生の頃にスーパーカーブームがあって、学校でスーパーカー消しゴムが流行しました。自分は鉄道好きだったからそれほど興味がなかったけど、ブームに乗ってガチャガチャをやってみました。でも、そんなにリアルじゃないからちょっと物足りない。ヘッドライトを彫刻刀で切り抜いて内部を銀色に塗装し透明プラ板をはめ込むなどして、見栄えを良くしてみました。

それを学校に持って行ったら、大評判になって「欲しい」という友達が出てきたんです。私立の学校に行っていたのでみんな電車通学で小銭を持っていたから、数百円で買ってくれました。原価100円のものが数百円になったわけです。販売の見通しが立ったので、そのあとは妹と弟にお金をもたせて近所にガチャガチャをやらせにいくという方法で原料を仕入れました。子供なのでガチャガチャができるだけでも嬉しいわけです。人気の高い車種が出たら同じように細工して、学校に持って行って販売して。3者とも満足するので「三方良し」ですね。その利益で『初歩のラジオ』『ラジオの製作』などの雑誌を購読しました。もっとも、どっちもすぐに卒業して、中学生のころはもっぱら『トランジスタ技術』を読んでいました。

中学生3年生になると親が数学の家庭教師をつけてくれました。その大学生の先生がバンドをやっていたんです。楽器が高いから、周辺機材まで手が回らない。あるときエフェクターやミキサーなどの自作入門書を渡されて、「君、作れるよね」と。大学生をクライアントに電子工作のアルバイトです。その後、高校生になったら友達がバンドをやり始めて、同じようにヘッドフォンアンプやシンセドラム製作などの注文を受けて作っていました。おかげで体感的にアナログ回路の理解が進みました。

■コンピュータとの出会いはポケコンから

コンピュータに興味が湧いたのは中学校3年生の頃でした。時代としては、NECがPC-8001を発売した翌年の1980年です。PC-8001はとても高価で手が出ないので、かわりに買ったのがシャープのPC-1211というポケコンです。BASIC言語が走る4ビットマシンでした。ゲームが遊びたかったわけではなくて、いろんなプログラムを作って走らせること自体が楽しかったですね。また、何かを制御してみたいという思いがありました。

もともと電子工作好きで、ハードウェアから入ってきていましたので。当時のパソコン少年の「無料でゲームをしたいから、パソコンを買ってプログラミング」という王道からはちょっと外れていました。のちのツールメーカーになる片鱗が、この辺からあったのかもしれません。

ただ、その程度のスペックではたいしたことはできません。そこで、翌年に出た同じくシャープのPC-1500というポケコンに買い換えました。今度は8ビットCPUで、LCDには156×7ピクセルの表示領域があり、別売りの拡張ユニットを購入するとプロッタプリンタも使えました。4色のボールペン式で、文字はもちろん図形やグラフなどが描けるんです。まさに「制御している」感覚です。それでも、パソコンを買うよりは安かったですからね。しかもPEEK、POKEという命令が使えたので、BASICの非公開命令を探し出したりして遊んでいました。

その後、シャープから『PC-1500機械語の手引き』という書籍が出版されて、これは大きな糧になりました。独自CPUの命令セットや回路図などの仕様が、全部載っていたんです。入門書ではなく、完全にエンジニア向けの内容だったので最初は意味が分からなかったのですが、何度も何度も繰り返して読み進め、わからないところは自分なりに調べていきました。そのうち、使われていない機能を発見したんです。そこで本体を改造しました。電子工作の知識と鉄道模型工作のテクニックがここで活かされました。

輸出版に切り替えるジャンパが内部の基板上にあったのでそれを切り替えてみたところ、本体の[カナ]キーが[CAPS LOCK]キーになることを発見。そこで物理的なスイッチを付けていつでも切り替えられるように改造しました。次に、パラレルインターフェスの機能があるのに使われていないことがわかったので、自分で回路を設計して、ICとコネクタを組み込みました。

そうなると、何かを繋げたくなるのが人情です。夏休みにD/Aコンバータを自作して、学校の理科実験室にあったオシロスコープを接続し、サイン波などを表示させてみました。また、プログラマブル・サウンド・ジェネレーターのSN76489を秋葉原で買ってきて、音源ボードを自作しました。MZ-1500やセガ・マスターシステムなどで採用されていたLSIです。エフェクターなどを自作していた経験が、ここでも活きましたね。

SHARP PC-1211 のカタログ(1) SHARP PC-1211 のカタログ(2)
SHARP PC-1500とプリンタプロッタ+カセットインターフェース 「PC-1500機械語の手引き」(1)
「PC-1500機械語の手引き」(2) 「PC-1500機械語の手引き」(3)
底部左下にあるスライドスイッチが[CAPS]-[カナ]切替スイッチ、右下の青いコネクタがパラレルI/F D/Aコンバータ基板
SN76489搭載音源ボード セントロニクス・プリンタI/Fボード

■シーケンサーを機械語で自作するまでに熱中

もっとも、音源ボードだけでは音楽は鳴らないので、シーケンサーを自作する必要がありました。さすがにBASIC言語だと遅くて話にならないので、機械語でプログラミングしました。『月刊アスキー』に当時、PC-8001向けのプログラムが掲載されていたので、それを参考に移植したんです。ところが、PC-1500にはアセンブラもマシン語モニタも提供されていませんでした。

そのため、ニーモニックコードを見ながらハンドアセンブルして、POKE文でプログラムを書き込みました。エラーが出てもデバッガがないから、どこを直せば良いのか見当もつかない。たぶん、途中で固定メモリに値を書いて、PEEK文で読み出しながらデバッグしたんじゃないかな。わずか十数行のプログラムでしたが、一ヶ月くらいかかりました。当時は根気がありました。今やれと言われても、絶対にできないでしょうね。

まあ、こんな調子で高校生活を過ごしまして。順当に浪人しました。さすがに学校中を見わたしても、他に似たような生徒はいなかったですね。最終的に『PC-1500機械語の手引き』は100回くらい読み返したと思います。これと同じくらい熱心に教科書を読み込めば、もっと成績は上がったんでしょうけれど。幸い一浪ですんで、中央大学の理工学部に進学しました。

研究室ではアルゴリズムが専門で、LSIに効率的にトランジスタを配置するための研究などが行われていました。当時は電機・半導体業界は花形で、NEC・日立・東芝・ソニーなどが人気でした。大学院の修士課程に進んで、1991年に卒業することになります。

ちょうどバブル経済で就職活動が華やかだった最後の年で、ちまたにはOB訪問で寿司をおごってもらったり、内定者を集めて温泉ツアーに招待したりとか、いろんな話がありました。そこで就職せずに起業したわけですから、やっぱり変わっていましたね。

■学生時代に技術雑誌でライターデビュー

話は浪人時代に戻ります。そのころ技術評論社からコンピュータとエンジニアリングを扱う『プロセッサ』という雑誌が創刊されました。その創刊準備号を読んで、いくつか細かい間違いを見つけたので、編集部にアンケートはがきを送りました。そのとき一緒にPC-1500の改造の話を書き添えました。

大学に入ってすぐのころ、自宅に技術評論社から荷物が届きました。空けてみたら原稿用紙の束と、「PC-1500の改造記事をぜひ書いてください」という、編集部からの手紙が入っていて。これが技術誌で記事を書くようになったキッカケです。そのときには、PC-9801を持っていたので、PC-1500にPC-9801用のプリンターを接続するインターフェース・ボードを追加で制作して、あわせて記事にしました。

技術評論社ではいろんな記事を書かせてもらいました。その一つが翌年から連載が始まったFM音源ボードを製作するという企画です。当時発売されたヤマハのFM音源チップ「YM3812」を使ったFM音源ボードをPC-9801向けに自作するという内容でした。PC-1500向けの記事で、サウンド・ジェネレータを繋げる話を書いたので、編集長が覚えていてくれたんですね。

その連載ではメインのライターさんが別にいて、私はPC-9801への移植担当でした。メインのライターさんがFM-77ベースの拡張ボードとプログラムの記事を書くと、おっかけで私がPC-9801向けの拡張ボードとプログラムに移植する記事を書くという具合です。もっとも、FM-77とPC-9801ではいくら同じLSIを使うといってもそのままでは移植できませんので、回路もプログラムも基本的には全部設計し直しです。

連載は数年間続きました。FM音源の音色作成ソフトを皮切りに、次にシーケンサーソフトを作り、LSIを2つ搭載してステレオにしたり、MIDIインターフェースを付けたりと、だんだん豪華なものになっていきました。さらに、これを実際の商品にしたいという話になり、「MIDI MICRO MUSIC」という型番で商品化されました。市場では5万円くらいで販売されたのかな。自分に利益還元はありませんでしたが、自分が設計したものが商品になったのは嬉しかったですね。他にも『プロセッサ』編集部の隣に『The BASIC』編集部があり、よくPC-9801の新製品の解析記事などを寄稿していました。

また、編集部に出入りしているうちに、変な大学生がいると噂になって、いろんなところからお声がかかりました。その結果の一つが『一太郎Ver.3 JUSTテクニックブック』(技術評論社)という書籍です。「一太郎」は前身の「jX-WORD太郎」から原稿を書くために愛用していました。使っているうちに「一太郎」や「ATOK」を改造することを思いついたんです。それで短い記事を『The BAISC』に書いたら、書籍編集部の目にとまったようです。『一太郎Ver.3 JUSTテクニックブック』は巻末にプログラムソースがついているという異色の解説書です。書籍とは別にプログラムのディスクサービスとして1万円くらいでも通販していました。これは非常に儲かって、起業するときの資本金になりました。
そうそう、2400bpsのモデムの取扱説明書を書いたこともありました。

「プロセッサ」誌創刊準備号 「プロセッサ」誌に掲載された記事(1)
「プロセッサ」誌に掲載された記事(2) 「プロセッサ」誌に掲載された記事(3)
「プロセッサ」誌連載記事から生まれたFM音源+MIDI I/Fボード(量産バージョン) 当時執筆した書籍の一部。「98ハードに強くなる本II」「一太郎Ver.3 JUSTテクニックブック」「PC-9801スーパーテクニック」「UNDOCUMENTED 9801/9821」
「一太郎Ver.3 JUSTテクニックブック」巻末のアセンブラリスト。異色の解説本だったが、非常に売れた

■黎明期のPC業界のダイナミズムを背景に起業

こんな風に学生時代はずっとライターをしていたのですが、そのままライターになろうとは思っていませんでした。最初から起業を考えていました。

というのも、当時は西和彦さんがアスキーを創業したり、孫正義さんがソフトバンクを創業したりと、パソコン業界というものができつつある時代でした。ソフトバンクが創業したのが自分が中学3年生のとき、雑誌『Oh!PC』『Oh!MZ』が創刊したのが高校1年生のときでしたね。父親が証券会社に勤務して、ベンチャー企業の上場などに関わっていたからなのか、よけいに身近に思えました。

また、当時から記事の質は結構評価されていましたが、遅筆のために時間がかかり、とてもプロのライターにはなれそうもないという判断もありました。むしろ自分で会社を興して、自社ブランドのソフトウェア開発・販売をする方に憧れがありました。

そんな頃、編集部を通してもう一人の創業メンバーの清水和文に出会いました。清水とは同い年でしたが、すでに通信機器メーカーでエンジニアとして働いていました。社会人3年目くらいでしたが、仕事がつまらないと。清水も学生時代に技術評論社でアルバイトをしていて、パソコン通信用のソフト『CCT-98』(技術評論社)の開発を手がけていて、もっと自由に開発をしてみたかったようです。

余談ですが、その通信用ソフトは学生アルバイト5人ほどで作ったと聞いています。今では考えられないかもしれませんね。もっとも、今でもプログラミングの才能があれば、大学生でも本格的なプログラムを組むことはできると思います。あとはプロが監修とサポートについてあげればいい。弊社でも、学生アルバイトの子たちにどんどんチャンスを与えています。

話を戻すと、僕も一人で起業するのは不安でしたし、仲間が欲しかったので、会ってみることにしました。そこで話をしているうちに意気投合して互いの貯金から250万円ずつ出し合って、資本金500万円で創業しました。親に反対されるかなと思いましたが、意外とすんなり受け止めてくれて。すでにライターとして相応の収入があり、扶養家族を離れていましたし、しょっちゅう家に編集部やメーカーの人から電話がかかっていましたから、察してくれたのかもしれませんね。

■シリコンディスクのBIOSプログラムを受注開発

創業当時に売上の柱となったのが、『CCT-98』シリーズのロイヤリティです。バージョンアップも続けていて、定期収入となりました。自分も雑誌や書籍でライターの仕事を続けていました。高校生時代の憧れだった『月刊アスキー』の仕事も受けることができました。

そうこうするうちに、アイ・オー・データ機器からシリコンディスクボードをPC-9801用に発売するので、BIOSのプログラムを書いて欲しいという依頼を受けました。きっかけはパソコン通信の「日経MIX」(日経BPが運営していたBBS) です。技術評論社の編集の方に勧められて学生時代から入り浸り、PC-9801関連のBBSでSIGオペをするようになったんです。日経MIXにはプロのエンジニアが多く、PC-VANやNIFTY-Serveなどと比べて、濃い話が多かったですね。そこで知り合った方に声をかけてもらえました。そのころできた「日経MIX」の人脈は今でも続いています。
余談ですが、「日経MIX」を勧めてくれた編集の方は、清水を紹介してくれた方でもあります。他にも沢山のことを教えてくれた恩人です。

話をシリコンディスクボードに戻すと、今から思えば、大学を出たての若者のベンチャー企業によく発注したなと思います。しかし当時のパソコン業界には、そういった大らかさがありました。先方からは「社内で手が足りないから、ちょっと手伝って欲しい」という言い方をされて、もしダメだったら自社で引き取れば良いくらいに考えていたんじゃないでしょうか。でも、その後PC-9801の新しい機種がいくつも出ても、開発したBIOSプログラムは修正する必要なく動作したので、出来が良いとお褒めの言葉をいただきました。

翌年にはアイ・オー・データ機器からPC-9801用のXGAディスプレイカード「GA-1024i」のお仕事もいただきました。その頃はまだJPEGが規格として出始めたころで、画像フォーマットは無圧縮BMPかランレングス圧縮BMPしかありませんでした。当然JPEGのエンコーダーもデコーダーもありません。それで、先方から技術資料などをいただいて、自主開発しました。これが弊社が画像圧縮にかかわるきっかけでした。実際にプログラミングしたのは清水です。ふわっとした依頼でしたが、逆に自分たちで自由に作れて、挑戦のしがいがありました。

CCT-98III,CCT/Vのパッケージ シリコンディスクボードのパッケージ
シリコンディスクボードの本体

■インターネットの普及と共にシェアウェアに乗り出す

そんな風に受託の仕事が次第に増えていきました。しかし、もともと自社ブランドで製品を販売することを目指して起業したわけです。もっとも、二人だけの零細企業では、そんな余力はまったくありませんでした。どうしたものかなと思いながら、数年間そういった時代が続くことになります。

起業して5年目、1995年頃に商用インターネットの普及が始まりました。パソコン通信の時代から「シェアウェア」と言って、個人やベンチャー企業がソフトウェアを販売することは行われていましたが、ウェブサイトが使えるようになると、よりソフトウェアの販売がやりやすくなります。最初の頃はニフティサーブのシェアウェア送金代行サービスが一番ポピュラーな決済手段でした。その後、ベクターもインターネット上で同様のサービスをはじめました。ベクターは創業当初、フリーソフトやシェアウェアを収録したCD-ROM付き書籍の販売が本業でしたが、それをネット上に展開して、決済サービスに広げていったんです。

そんな風に環境が整ってきたので、受託仕事の合間にシェアウェアの開発と販売をはじめました。その頃から自分でプログラムする機会は次第になくなっていきました。かわりに業務委託のフリーのプログラマを増やしていきました。自分がクライアントに営業をして仕事を取ってきて、彼らに発注をして進捗管理をして、成果物を納品する。その一方で清水が「CCT-98」シリーズのバージョンアップをはじめ、社内で開発をしている。そんな体勢です。

はじめての社員を雇ったのもその頃です。起業して4年経て、やっと2人から3人になりました。もっとも業績はずっと低空飛行でしたから、かなり勇気がいりましたね。パソコン通信からインターネットに時代が移りつつあるなかで、稼ぎ頭の「CCT-98」シリーズの売上も減ってきて、次の柱を見つけようとしていました。

その後、1996年頃に5人目の社員、小野知之が入りました。小野が作ったシェアウェアが「Getweb!」というホームページの自動巡回ソフトでした。当時はテレホーダイがあるかないかくらいの時代で、ISDNが高速インターネットの時代でした。そのため、ホームページを閲覧するうえでURLアドレスをあらかじめ登録しておき、更新分を全部ダウンロードして通信回線を切ってから、ゆっくり更新分を読むといった使い方が主流だったんです。

もっとも、シェウェアだけではあまりお金にならないので、アイ・オー・データ機器に営業に行き、通信ボードやモデムなどにバンドルして販売してもらうなどしました。当時はよく、同社がある金沢に出張していましたね。「Getweb!」は別の企業からも『ぷらネットウォーカー』という名前でOEM販売されました。

ベクターが販売していたCD-ROM付書籍 Getweb! の紹介欄
Getweb! の画面 Getweb! 付属画像ビューワの画面
同時期に開発していたGetPHOTO! の画面

■趣味と実益が重なり、「OPTPiX」が誕生

話は前後しますが、当時インターネットのコンテンツとして人気を集めていたのが、絵師さんが描いた「萌え」イラストでした。「Getweb!」にも画像ビューワ機能があり、それを清水が作りました。実はたまたま、清水がそういった萌え画像が好きで、人気絵師さんのホームページのリンクサイトを自分で作って管理していたんです。その界隈では結構、有名なリンクサイトだったようです。

当時、清水は趣味で作ったリンクサイトを管理しながら、自社ソフト「Getweb!」で自動巡回して、画像ファイルを大量にダウンロードしていました。そのビューワは自分が作っているわけです。当然、プログラミングにも熱が入りますよね。当時そうした画像ファイルがハードディスクに1テラバイトくらいあったようです。

一方で「Getweb!」を作った小野が弊社に入社する前に、フリーのプログラマとしてPCの育成シミュレーションゲームの開発を手伝っていました。まだゲームがフルカラーではなく256色だった時代です。当時は絵師さんが原画を描き、それをスキャナで取り込み、PCで256色に彩色するのが一般的でしたが、より美麗なグラフィック表現をしたい作品では、フルカラーで彩色してから256色に減色するという手法が広まりつつある時期でした。ところが、当時はいろいろな意味で使いやすく性能の良い減色ツールが無く、現場のCGデザイナーがとても困っている、という話を聞いていました。
そんなとき、小野が画像アルゴリズムの研究者を連れてきてくれました。清水が画像処理プログラムの作成に興味を示したので、そこから減色ツールの共同開発が始まりました。インターネットブームが始まった頃なので、ウェブで使うGIFファイルへの変換の需要はあるだろうと考え、一般向けにシェアウェアとして販売を開始したのが「OPTPiX」の始まりです。今日まで続く画像最適化ツールの原型になるなんて、そのときは想像すらしていませんでした。裏を返せばそれくらい、企業として新しいネタを探していたんですね。

ちなみにツールの検証用に、清水が持っていた大量の画像ファイルコレクションが役に立ちました。自分はそれまで、清水がそういった趣味があったとはまったく知りませんでした。でも、その好きだという思いが手伝って、非常に品質が高いツールができたのだと思います。クリエイターのモノ作りにかける思いは、やっぱり重要だと言うことですね。

初代OPTPiXの紹介欄 初代OPTPiXの画面

(後編につづく)
《小野憲史》

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