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【俺の電子遊戯】第12回 1991年の秋葉原とアーケード『ストII』の波

自室でのゲーム環境も、スーパーファミコンの勢いに押されたのか、店頭でディスカントされお買い得になっていたメガドライブを買い直し、夏には『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』が発売され購入する。

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    73年生まれ。インベーダーが日本中を侵略した頃、小学生だった筆者の目に映ったビデオゲームは間違いなく「未来へのパスポート」だった。その魅力に取り憑かれ、気づけば不惑の40代となったオッサンが、ビデオゲームと共に過ごした30年を語る連載。前回の記事はこちら

上京、秋葉原までは電車で1本15分!

1991年3月。地元の高校を卒業した私は上京、新小岩にある新聞専売所に勤めながら、音楽の専門学校に通うこととなった。はじめてのひとり暮らしとなった住まいは、4畳半、風呂なし共同トイレの築30年ほどの木造アパート、家賃は1ヶ月1万7千円(専売所負担)だった。どんなに古くて狭い部屋でも、住めば都とはよく言ったものである。部屋には専売所の先輩から脈々と受け継がれていた14インチのテレビが置いてあり、そのテレビに実家から持ってきたPCエンジンを繋いでいたのが、ひとり暮らし初期のゲーム環境であった。

アパートのある新小岩は、秋葉原までのアクセスがJR総武線1本で15分の好条件。となると、休日は必然と秋葉原に通うことになった。しかもひと駅先の御茶ノ水は楽器屋街、さらに徒歩で神保町の古本屋やプロレス、サブカル書籍が充実する書泉ブックマートもあり、休日はこの地域に足繁く通った。

電気街だった頃の秋葉原

秋葉原での散策コースは段々最適化されていった。コースは改札を出てアキハバラデパートの実演販売を横に中央通りへ向かい、ゲームショップのゼット前を通過。店先の新作や特価品の価格をひと通りチェックし、石丸、九十九、サトームセン、ラオックスなど家電量販店のゲーム売り場を流し、ゲーム専門店のメッセサンオー、古川電気あたりまで足を伸ばした。その後は駅方面に戻り、御茶ノ水駅、楽器街で楽器をチェックしながら、神保町方面まで坂を下り、書泉ブックマートに行くという流れ。当時の秋葉原は、家電、パソコン、電子部品の街というあんばいで、オタクの街と称される2015年の今とは随分趣は違っていた。夜8時にはほとんどの店は閉店し、食べ物屋も少なく街中の牛丼店やアキハバラデパートのフードコーナー、ミスタードーナツには随分お世話になったものだ。


メガドライブの買い直し、そして俺のスーパーファミコン

自室でのゲーム環境も、スーパーファミコンの勢いに押されたのか、店頭でディスカントされお買い得になっていたメガドライブを買い直した。夏には『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』が発売され購入する。電源をオンにすると響く「セ~ガ~」のSE、軽快なBGMとスピード感あふれるゲーム展開、骨太なアクションそれでいて、リングを持っていると即死しないシステム。プレイヤーの分身ソニックが画面を縦横無尽に駆け巡り爽快感バツグンのゲームに魅了された。夕刊を配り、集金など夜の仕事を終えて帰宅。エアコンもなく、扇風機の生ぬるい風を浴びながら4畳半のアパートでひとり黙々とプレイする日々が続いた。


8月に勤めていた新聞専売所からボーナスが支給された。渡された封筒には5万円ほどが入っていた。専売所の先輩は「ボーナスと言ってもおこづかい程度だけどな」と言っていたが、実家は自営業でボーナスというものの価値を全く知らなかった私にとって、月々の給料以外にお金がもらえるのは凄いと単純に感心して嬉しかった。

そのボーナスを握りしめ私は近所のゲームショップに駆け込む。スーパーファミコンと『ファイナルファンタジーIV』を手にして店を出た私。『ファイナルファンタジーIV』に夢中になってからはスーパーファミコン中心のゲームライフと変貌する。『ファイナルファンタジーIV』でのドラマチックな展開やオーケストラを思い出させる重厚なサウンド、ネタバレとなるがラスボス前、シリーズのテーマ曲「ファイナルファンタジー」が流れる中、ミシディアの長老とパロム、ポロムたちが祈りを捧げセシルたちが復活するシーンにはゲームでここまで心揺さぶられるものか! と感動したものだった。

その後も、私の中ではもちろん、世間的にもスーパーファミコンの快進撃は止まらなかった。『ポピュラス』『シムシティ』などのPC、海外発のゲームや、タイムアタックに夢中になった『F-ZERO』、スーパーファミコンオリジナルながら、アーケード版からの流れをきっちりと踏襲した『超魔界村』、アクションRPG『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』、当時画期的であったフリーシナリオに戸惑った『ロマンシング サ・ガ』。次から次へと良作がリリースされ、私のスーパーファミコンライフは充実の一途をたどるのであった。

ゲームセンターでの日課と、となりに座る『ストリートファイターII』


家庭用ゲーム機ではスーパーファミコンを軸に遊ぶ日が続いたのだが、ゲームセンター通いも上京してからは再び活発になった。毎日仕事を終えてから、駅前のゲームセンター3件ほどをハシゴして『ファイナルファイト』や100円2クレジットのNEO・GEO、MVS筐体でのプレイ、そしていつも最後に行くのは、ハンドルに付いたバドルでシフトチェンジする『スーパーモナコGP』の筐体が稼働していたゲーセンで日課の様にワンコインを投入してF1パイロット気分になっていた。ゲームセンターの景色も80年代とは大分変化してきており、テーブル型が中心だったゲームセンターの筐体も設置面積が小さく、照明の照り返しもなくプレイしやすいアップライト型の筐体が主流となってきていた。

そしてこの時期のゲームセンターといえば、対戦格闘ゲーム『ストリートファイターII』が起こした大ブームだ。私と『ストリートファイターII』の出会いは、当然ゲームセンターであったが、稼働当初は筐体を背中合わせにした対戦台などなく、ひとつの筐体、コントロールパネル部分に1レバー6ボタンが2セット並べられたスタイルでふたりプレイが出来る様になっていた。しかし、対戦が盛んに行なわれるということはなく、今までのゲーム同様、ひとりで遊ぶのが基本スタイルで、対戦を行いたい場合はプレイヤーにひと声かけて、横に座り対戦を行っていた。

右、下、右ななめ下。インストラクションカードに書かれたリュウの昇龍拳コマンドはコツを掴むまでなかなか出せなかった。波動拳もしかりでそんな状態が続いたのだが、なんとかCPU戦はパターン化してクリアまで可能になっていた。しかし、たまに乱入される対人戦では何も出来ずすぐ負ける状態が続くことが多かった。私はただこのゲーム内でエンディングを見たいだけだったのに……。そう思いつつ敗戦後席を立つときの何とも言えない気持ちを引きずりながらゲームセンターを後にすることがこの頃は増えていった。

ゲームもバンドも中途半端、前途多難な1年目

そんな負け犬気分でゲームセンターに通っていた頃、上京した目的であった音楽活動は停滞していた。共に上京したユースケとギターのモチ。メンバー3人が継続する形でドラムを見つければすぐ活動出来るだろう。と思っていたものの私は、学校の授業に出るものの放課後はまた帰宅して夕刊配達や夜の雑務と、交友範囲は広がらず、メンバーのふたりも学生のひとり暮らしで開放感が出たのかバンド活動より、学生生活を満喫している感じで中々バンドは始動しなかった。結局上京して初めてライブをやるまでに1年ほど費やしてしまい、上京初年度の私は、秋葉原周辺の地理と西新宿のブートCD屋と家電量販店に詳しくなったのが一番のスキルアップという、なんともトホホな上京生活となってしまったのであった。


記事提供元: Game*Spark
《Game*Spark》
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