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何かに挑戦するなら「まずはやってみること」・・・アタリ創業者ノーラン・ブッシュネル

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何かに挑戦するなら「まずはやってみること」・・・アタリ創業者ノーラン・ブッシュネル
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業務用や家庭用ゲームの原点と源流がここにあります。1972年にノーラン・ブッシュネル氏とテッド・ダブニー氏によって創業されたアタリ(ATARI)社がビデオ(テレビ)ゲームのルーツと言っても過言ではないでしょう。

もちろん厳密に言えばフェアチャイルド社がリリースした「チャンネルF」やマグナボックス社の「オデッセイ」などの先進的なハードウェアがありますが、一般に普及しビデオゲームが産業として急成長を遂げたのはブッシュネル氏の類まれなる商才が発揮されたことによるところが大きいのではないでしょうか。

アタリ崩壊(アタリショック)のキッカケと言われるゲームカートリッジ『E.T.』発掘のドキュメンタリー映画のDVD「ATARI GAME OVER」(9月16日発売)の発売に併せてビデオゲーム黎明期の話を中心にお話を伺いました。

インタビュー/構成:黒川文雄



起業家、経営者、ビデオゲームの父として



―――まずはご自身の少年時代のことをお教えください。遊園地「ラグーンパーク」でのアルバイトの経験が後のビジネス経験に役にたったと聞いています。

「ラグーンパーク」でアルバイトを始める前から、実は起業家として自分でいろいろと仕事を探し始めていました。その頃は、昼間は広告代理店で働いて、同時に大学にも通っていました。大学ではエンジニアリングを専攻しました。そのときにビデオ映像関係の仕事をしている人たちと知り合い、それがゲームとの関わり合いを持つきっかけとなったのです。しかし、当時は、ゲームソフトの開発をして売っていくという発想はなく、まして、25セントコインをゲームに投入していくアーケード(ゲームセンター)ゲームのビジネスでは割に合わないと思い、自分自身で事業化をすることは見送りました。

―――私はブッシュネル氏を、エンタテインメント性とビジネスのバランスが取れている経営者だと認識をしていますがいかがでしょう?

そうですね。若いころから、起業家マインドを持ち、次は何がビジネスとして成立するかということを考えていました。そして、ゲームというジャンルに出会い、ビジネスの可能性を見出すことができたので、始めたというのがその当時の状況です。

―――ご自身で起業する前に、アンペックス社(※)に就職しましたが、なぜアンペックス社を選んだのでしょうか。様々な経験を活かして、すぐに起業をすることは考えなかったのですか?

※アンペックス=1944年創業のエレクトロニクス企業。放送用ビデオ機器の開発や発売を手掛けた。

「ラグーンパーク」や広告代理店に勤務していた頃は、コンピュータやそれを構成するチップは非常に高価で、自分自身で購入できるものではありませんでした。大学を出て、アンペックスに入社したのも、すぐにエンジニアとしての経験を積みたかったことに加えて、コンピュータやチップのコストが自身でも購入できる時期になるまで待とうと思ったからです。それから何年か経ってコンピュータの値段が、安くなった頃合いを見計らい、ゲームビジネスをスタートさせたのです。

―――アタリの件でお伺いします。現在では、あなたは世界的に「ビデオゲームの父」として認識されています。ただ、スティーブ・ラッセル氏の『スペースウォー!」に触発されて生み出されたものが『コンピュタースペース」であり、ラルフ・ベア氏の開発によるゲーム機「オデッセイ」(1975年)のテーブルテニスにインスパイアされたものが「PONG(ルビ:ポン)」であると思います。あなた自身がビデオゲームというイノベーションを起こしたことは間違いないと思いますが、むしろゲームをビジネスにした父として私はあなたのことを高く評価しています。その点に関して抵抗はありますか?もしくはご自身でその点をどのように考えておりますか?

私はスティーブ・ラッセル氏がクールで、カッコよくて、楽しいゲームを開発した人物だと思っています。しかし、彼が行ったことはビジネスではなく、研究でした。彼が1972~73年頃にMIT(マサチューセッツ工科大学)在学中に開発したゲーム『スペースウォー!」は、コンシューマー用のゲームではありませんでした。ですから、私がやった改革は、ラッセル氏が研究開発したものをビジネスに転換することだったと言えるのではないでしょうか。そして、そのコンテンツを流通する為に、アタリを創業したことを考えると、ゲームビジネスの商業化という点においては第一人者であり「父」であると思います。また、私が開発した技術は、1977年にワードプロセッサー(シャープの試作機)に技術的な上書きをされるまで、ずっとゲーム業界の人達に使用されるものとなっていました。

つまり、私はゲームコンテンツやゲームビジネスを大衆化したという意味では「ビデオゲームの父」と呼ばれるのが正しいと思っています。世界がゲームビジネスの準備ができる6年前に、私自分がゲームの大衆化を世の中に発表したからです。

―――アタリは自由な社風、改革を恐れない社風でひとつの時代を作りました。それはあなた自身の「誰からも管理されたくないという」お気持ちからのものでしょうか。それとも自然にそのような社風が生まれたのでしょうか。

自分自身がビジネスを始めた時には企業哲学として、フラットでオープンな組織を意図して作りたかったのです。全ての人にそれを伝えたことはありませんでしたが、組織としてはオープンにしたほうが新しい発想や、柔軟な考え方が、自分たちの目指すゴールに進めることができるのではないかと思ったからです。

スティーブ・ジョブズは部下でありライバルだった・・・



―――現在のグーグルのメンバーが「グーグラー」と呼び合うように、「アタリアン」という呼び名があったと聞いています。そのようなある種の特別な意識が社員の間にはあったのでしょうか?

そうですね。お互いに「アタリアン」と呼び合っていました。

スティーブ・ジョブズがアタリで働いていたときに、アタリの技術的なコピーをいくつか持ち出し、それをアップルの製品に応用していることもありました。当時、アタリとアップルは、シリコンバレーで二大巨頭であったことは間違いなく、また当時のアタリの技術が各方面に散らばったことが、結果的にコンピュータ業界全体のアイディアや技術を向上させたと思いますね。

―――ジョブズ氏とのあなたの間柄はライバルでもあったということでしょうか?

不思議な感覚なのですが。スティーブがアタリを去った後でも、友情関係を持ちつつ、彼がアップルを創業した後も、アタリのパーツを販売したり、技術的な支援も行いました。お互いに成功することを望んでおりましたし、互いにそう願っていた不思議な関係でした。

―――なるほど素晴らしいご関係ですね。



―――今となっては、語っても問題ないと思いますが、1972年のアタリ創業時から80年代頃まで、ヒッピーカルチャーの一環として、マリファナやドラッグを使用しながら、ゲーム開発を行うような、西海岸的な文化や企業風土といったものは、あったのでしょうか。

当時のシリコンバレーのエンジニアは、自分たちの業務や役割を真摯に受け止めていました。ゆえに働く環境の中では、それはなかったと思います。ビデオゲーム業界を見渡しても、エンジニアはスーツで、白いワイシャツにネクタイというスタイルを貫いていたような気がします。自分自身もそうしていました。世間一般的には「ビデオゲームの会社は、今日できて明日にはなくなる」程度の認識しかなかったと思いますが、自分たちは産業として残ってゆく為に、自らを律していたように思います。

クリエイティビティを失った会社は崩壊する



―――アタリにはブッシュネル氏自身が起業し経営した前期と、後期のワーナー・コミュニケーションズに買収された時期がありますが、前半はクリエイティビティが優先されましたが、後半はどちらかというとビジネス(収益率)が重んじられたと見受けられます。一方であなたは買収により1300万ドルの利益を手にしています。買収後にあなた自身は、ワーナー・コミュニケーションズへの買収に関して、ひどく後悔したと聞いていますが、どの部分を後悔したのでしょうか。合わせて本作『ATARI GAME OVER』は、ご自身が退任されたあとのソフトであり、600万本を製造して100万本しか売れなかった『E.T.』の発掘ドキュメンタリーです。あなた自身が創業した会社を倒産させる大きな要因とも言われたソフトですが、何か感じるものはありますか。

ワーナー・コミュニケーションズへ株式売却後、アタリの企業カルチャーは変化していきました。

その要因は、新しくワーナー・コミュニケーションズから来た経営陣です。彼らはゲームを遊ぶことをしなかった。それにゲームへの信念とか心情とか愛情を持っていない人達でした。ゲームコンテンツを開発して売るというよりも、小麦か何かを栽培して利益を得ているような会社になってしまいました。

結果的にその人達が、ゲームコンテンツのライセンス契約に対して、ものすごい大金を支払っていったのです。『E.T.』ソフトの開発契約に関してはクリスマス商戦用のコンテンツとして契約書にサインをしましたが、それは、映画『E.T.』の公開後から半年たった後であり、世間の関心が薄れ始めていた時期にも関わらず、彼らはそのソフトを販売することを決めたのです。その上に、通常、開発期間は、6カ月から9カ月時間をかけるものですが、2カ月の短期間で開発することを決め、クリスマス商戦に間に合わせたのです。スケジュール優先で、最低の品質のソフトを作ってしまったことが一番大きな失敗の要因です。



―――1975年に、ナムコの中村雅哉氏(当時・社長)に対してアタリの日本法人アタリジャパンを80万ドルで売却しましたが、日本でのビジネスがうまいかなかった理由はなんだったと思いますか?

アタリジャパンを売却した時、アタリジャパンのスタッフの経営能力は高いとは言えませんでした、しかし、ナムコの中村さんはゲームに対して魂を持っている人で、とても理解のある人でした。またナムコは販売会社としても力のある会社であり、業界のリーダーでした。結果的にはアタリジャパンをナムコに売却したのは自分としては成功だった思っています。中村さんもそう思っていたと考えています。

―――また、一説にはアタリジャパンの不良在庫をナムコに押し付けたという話や、「アタリからの技術支援は無かった」という声もありましたが、それらに関してはいかがでしょうか。

多くのアタリの失敗例は私がアタリを退任したあと、つまり(ワーナー・ミュニケーションズに)売却した後に起こったことです。事実、アタリの崩壊に関しても、多くの不平や不満を聞くことがありますが、それは私が経営権を握っていた時期と、直接関係ない時期に起こったものだと思っています。アタリジャパンに関して言えば、製造と流通をメインに行う会社でした。中村さんとしては、アタリジャパンを買収するというリスクをとってでも「パックマン」をたくさん売って、一儲けしたかったんじゃないでしょうか?その後、アタリジャパンの経営がうまくいかなくなった理由は、買収後のアタリジャパンが製造や流通で失敗を重ねてしまったからではないでしょうか。

クリエイティビティのあるべき姿とは



―――現在のコンテンツ開発は大きな組織で行うものが多くなり、そのために個人のアイディアレベルではよかったものが、多くのスタッフが関わるなかで、斬新さが失われてしまう状況があります。あなた自身は、その点やそのような環境をどのように考えますか?また、そうした状況を防ぐためにできることはあると思いますか?

以前の映画業界では、プロデューサー、監督、脚本家と3人で製作の責任を負っていましたが、今となっては全国ロードショーするような作品では、100人以上もの人たちの責任の下で映画が製作されています。同じような現象は、ゲーム業界にも当てはまります。当時は、少人数で開発していましたが、現在では、非常に大きな組織や人数を使って開発するケースが増えてきています。

一方、モバイルプラットホームでは、ひとりから数人で開発しているものもあります。よいコンテンツ事例が『マインクラフト』です。これはとてもいいゲームです。このゲームは少人数で開発したものです。ゆえに多人数でなくても開発や作業は可能です。現代では、携帯端末からパソコンまで、いろいろなプラットフォームでゲームの開発する環境があり、多くの人達がひしめき合って開発を行っています。そういうゲーム業界の発展を見れて大変嬉しく思ってます。

―――『E.T.』のようなクオリティの低いコンテンツを導入した結果として、アタリショックという大変、不名誉な言葉が生まれ、日本では任天堂がソフトクオリティを厳重に管理するような体制を取り、アメリカで生まれた産業が、日本で逆転的に伸張しました。その点をどのようにお考えになっていますか。

日本の会社は任天堂を始めとして「アタリショック」からコンテンツのクオリティコントロールを学んだと思います。それは間違いのないことでしょう。「アタリショック」のあと、「ビデオゲームビジネスは終わった」という風潮の時期もありました。後に、任天堂がアメリカ市場に参入したときにはすでに競合するものが無い状態でしたし、新しいゲームの市場を開拓し、発展していきました。私自身が常々言っていたのは、「アタリは倒産したのではなく切腹(自滅)した」という事だということです。

―――ゲーム産業はあなたが創造されてから、40年が経過しました。アーケードゲームの誕生を第一次ゲーム革命とすると、第二次は家庭にゲームが導入されたこと、第三次は3DCGの台頭であると私は位置づけています。来るべき第四次はバーチャルリアリティ(VR=仮想現実)ではないかと思いますが、VRの可能性はどのよう感じていますか?

これからますますVRは進んでいくことでしょう。

ゲームは改革や進化を常に行っていくものでしょう。あなたがおっしゃるような方向に進んで行くことだと、私も考えております。

今も人々はゲームを愛していますし、今後、VRや3Dが大きく発展し、みんなで新しい体験で遊ぶことができることは重要だと考えております。たとえば昨日の夜にパーティーをしたのですが、あるグループは、テレビゲームに興じており、あるグループはテーブルゲーム、他のグループはカードゲームというように、皆グループを作って遊んでいました。そうした何かしら一緒にできるものがVRのゲームにも必要だと思います。

引退しないほうが長生きできる



―――あと質問を3問してもいいですか?

いや、あと2問にしてください(笑)、そして、最後の質問はいい感じに締めくくろうじゃないですか・・・(笑)。

―――では、スティーブ・ジョブズ氏についてお尋ねします。アタリの40人目の社員と言われていますが、周囲とのトラブルも多く横柄で、シャワーもあまり浴びずに不潔だったというエピソードがあります。それでも雇用をしたのは、彼のどの部分の才能を見抜いたからでしょうか。

スティーブはとてもよく働き、情熱的で、エクセレントな青年でした。彼は何度もデスクの下に毛布を敷いて寝ていたことをよく覚えていますよ。彼の魅力は常に努力をするところです。

―――あなたのビジネススタイルについてお聞きします。あなたが求めているのはお金ですか?それともあくなき探究心でしょうか?

探究心が強いので5年くらいのタームで新しいことを常に思いついています。一般的に引退してしまった人より、引退せずに働き続けることを選ぶ人のほうが7年くらい長く生きるという医学的なデータがあるようです。そのようなことを知っていることもあって、自分の人生を全うするためにずっと働いていたいと思います。それと、常に自分が家に居たら、ウチの奥さんがストレスを感じてしまうかもしれないしね・・・(笑)。

―――最後の質問です。挑戦者たちへのメッセージをください。

一番のアドバイスは「Just Do It」(まずはやってみること)ですね。

ゲームで生計を立たかったら、10歳の子供でもゲームを作りApp Storeで販売することができる時代なのです。とにかく友達を作り、よいデザインセンスを持った人と出会うことですね。それから評論家のような冷静な視点をもって、ただ漫然と遊ぶのではなく、何が良くないかも理解して、遊んでみることだと思います。あとはUnityやUnreal Engineなどのプログラム言語を何かひとつ学ぶべきですね。それらは時間がかかるけど10歳の子供でもできることだからです。10歳の子供でもゲームを創ってApp Storeで販売することができる時代なのです。とにかく挑戦の心を持って「Just Do It」することです。 

2015年6月15日 
ノーラン・ブッシュネル氏のサンタモニカのBrainRushオフィスにて



■取材後記

1943年2月5日生まれ、72歳、ビデオゲーム業界の伝説の人、ノーラン・ブッシュネル氏は私を固い握手で迎えてくれました。

インタビューの前日までサンフランシスコに出張していたというスケジュールでしたが、疲れを感じる表情は見せませんでした。とは言え、ブッシュネル氏への道のりは非常に遠いものでした。2015年の初めにアポイントを取るため連絡先を探しましたが、なかなか見つかりませんでした。フェイスブックやツイッターでつながりのある人を探しましたが「紹介できるほど親しくは無い」「(黒川の代理で)メッセージをしたけど返事がない・・・」というものがほとんどでした。3カ月が経過し、あきらめかけていた頃に、とあるサイトからのコンタクトに成功し「インタビューを受けてもいい」という返事をもらいました。最終的に取材日程が決定したのは出張予定の1カ月前でした。約4カ月かけてアポイントが実現しました。私のインタビューに対してはアグレッシブな姿勢で臨んでくれました。最後の質問のように「まずはやってみることだよ」という言葉がとても印象的です。そして、常に探究心の赴くままに進む原動力は未だ衰えていないようです。

日本でもゲーム会社の経営者の多くが代替わりするなか、お聞きしたいこと、後世に語り継ぎたいことがたくさんあります。これからもそのような機会を醸成していきたいと思います。なお、今回のインタビューは9月16日発売、DVD「ATARI GAME OVER」にも部分的に動画収録をしております。ご高覧のほど宜しくお願いします。

■黒川文雄
くろかわ・ふみお 1960年、東京都生まれ。音楽ビジネス、ギャガにて映画・映像ビジネス、セガ、デジキューブ、コナミデジタルエンタテインメントにてゲームソフトビジネス、デックスエンタテインメント、NHNJapanにてオンラインゲームコンテンツ、そしてブシロードにてカードゲームビジネスなどエンタテインメントビジネスとコンテンツの表と裏を知りつくすメディアコンテンツ研究家であり、行動するジャーナリスト。黒川メディアコンテンツ研究所・所長。「黒川塾」主宰。コラム執筆、コンテンツプロデュース作多数。
ツイッターアカウントku6kawa230
《黒川文雄》

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