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子どもの頃の夢はゲームセンターの店長、新卒から10年で社長就任・・・日本ファルコム近藤季洋社長

ゲームビジネス その他

子どもの頃の夢はゲームセンターの店長、新卒から10年で社長就任・・・日本ファルコム近藤季洋社長
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日本のゲーム史を語る上で外せない老舗メーカー、日本ファルコム。1981年に創業し、『イース』『軌跡シリーズ』『ザナドゥ』など、数々の人気シリーズで親しまれています。そんな中、2007年から代表取締役社長として同社の舵取りをおこなっている近藤季洋氏。新卒で入社後、わずか9年8ヶ月で社長に就任したという、異例の人物です。その生い立ちから会社の現状、そして未来の戦略までじっくりお聞きしました。

(聞き手:黒川文雄)



―――お久しぶりです。最近いかがですか?

9月30日発売の最新作『東亰ザナドゥ』の追い込みでバタバタしています。ゲーム業界で6月といえばE3ですが、毎年この時期は忙しくて、一度も行ったことがないんですよ。

―――なんと、そうなんですか。それは意外ですね。

毎年行きたいと思っているんですが、なかなかタイミングが合いませんね。

―――今日は日本ファルコムの近藤季洋社長にいろいろとお話をおうかがいしていきます。まず生い立ちみたいなところからお聞きしたいのですが。

生まれは愛知県の豊田市で、父親はトヨタ自動車の関連会社に勤めていました。今でも企業城下町的な言われ方をしますが、僕が子供の頃はもっとそういうイメージが強かったですね。学校の運動会は企業の休日を選んで実施するとか、食料品や日用品の買物は企業生協で行うとか。

―――ゲームとの出会いは?

最初は『スペースインベーダー』です。子供の頃に川でおぼれかけて、小学2年生でスイミングスクールに通いはじめました。自宅は田んぼのど真ん中で夜になると蛙の大合唱といった場所で、そこからバスにのって街まで通っていました。バス停を降りてスイミングスクールまでの道すがらに、インベーダーハウスがあったんです。ガラス張りのお店で中にテーブル型の筐体が置かれていて、子供心になんだろうって興味が湧いたんですよね。それを横目で見ながら行き帰りするのが日課でした。

―――でも、なかなか子供が入れる雰囲気ではなかったでしょう?

そうなんですよ。それにお小遣いも、そんなにありませんでしたしね。自分から遊ぶことはありませんでした。ところがある日、ゲームを遊んでいたお兄さんが席を立って、どこかに行ってしまったんです。きっと何か急用があったんでしょうね。画面を見るとゲームが続いていた。そこで自分がかわりに席に座って、続きを遊んだんです。なるほど、こういうものかと。あの時の衝撃はいまだに覚えています。その頃に学校の作文で「大人になったらゲームセンターの店長になりたい」と書いたほどです。これは今でも親戚の集まりなどで、よくネタにされます。

―――それがゲームの原体験だったんですね。

ええ。でも、うちは家が厳しくて、なかなかゲーム機を買ってもらえなかったんです。近所に5歳年上のお兄さんがいて、そこで『ブロック崩し』などを遊ばせてもらっていました。また家族旅行で半年ごとに会社の保養施設を活用しており、そこでは1回10円でゲームができたので、夢中になって遊んでいましたね。そんな、どこにでもいる子供だったんですが、小学校5年生の時に父親の仕事の都合でタイのバンコクに引っ越したんですよ。その時「そんなに好きなら・・・」とファミコンを買ってもらえました。でもテレビ番組とゲームであわせて「1日1時間半」というルールがありました。

―――バンコクのゲーム事情はいかがでしたか?

中学2年まで現地にいて、日本人学校に通っていたんですが、みんな日本の情報に飢えていて、熱心に情報を収集していました。「いま日本ではパソコンで『イース』というゲームがはやっているらしい」とか。主な情報源は雑誌で、少し遅れて日本のものが入ってきたんです。市内で日本の雑誌を扱っていた「東京堂書店」という店があり、僕もよくチェックしていました。

―――バンコクでもファミコンを売っていたのですか?

コピー品ではないかと思うのですが、色違いのファミコンが売られていました。並行輸入品もありましたが、1.5倍から2倍くらい価格がしたので、なかなか買えなかったですね。それで叔母に電話してゲームを買ってもらい、バンコクに出張してくる父親の同僚に頼んで、持ってきてもらっていました。もっとも半年に一本くらいでしたから、手書きでマップを書いたりして、一つのソフトをホントに隅々まで遊びこみました。

―――当時の思い出のゲームといえば?

初代『ドラゴンクエスト』は衝撃的でした。そもそもRPGというものが未体験でしたから。「テキストで遊ぶってなんだろう」と妄想をたくましくしていましたね。実際に遊んだのが発売されて半年後で、すぐに熱中しました。それでクリアした直後に『2』が発売されたんです。もう欲しくて仕方がなくて叔母に電話しましたが、日本でもなかなか買えなくて。これも半年遅れで届いて、夢中になりました。『ファイナルファンタジー』もよく覚えています。『ファミリーコンピュータマガジン』に掲載された1/4ページの囲み記事で、画面写真も1点しかありませんでしたが、グラフィックの描き込みがすごくで、「これは普通じゃない」と、またまた叔母に電話して取り寄せました。



ファンサイトの制作が就職につながった



―――御社の看板ゲーム『イース』シリーズとの出会いはいかがでしたか?

たしか友達の家で『イースI』のPC−8801版を見せてもらったんじゃないかなあ。ただ、その時のことは実はあまり良く覚えていないですね。その後、中学3年生で帰国して、幼なじみがハマっていた『イースIII』を遊ばせてもらいました。ゲーム機と違うパソコンならではの美しいグラフィックや、音楽の素晴らしさに驚きました。そのパソコンにはFM音源ボードとローランドのスピーカーがついていたんです。でもゲームは難しくて何度も死んでしまって。「うーんパソコンゲームは難しいなあ」と思ったり(笑)。

―――その後、大学進学ですよね。

ゲーム業界に将来進みたいという漠然とした夢みたいなものはありましたが、そこまではっきり自分がやりたいことがあったわけではありません。同志社大学に進学したのも、ひとつは創始者である新島襄の建学の理念や経緯を知って、興味を持ったからです。幕末に脱藩して留学のために渡米するなんて、そんなすごい人がいたのかと驚きました。もっとも両親からは国公立大学に進学しろと言われていて、合格もしていたんです。ただ、叔父が後押ししてくれたんですよ。彼も大学が京都で、何か感じるものがあったんでしょうね。

―――学生時代から日本ファルコムのファンサイトを運営されていたと伺いました。

実はゼミの課題がきっかけだったんですよ。経済学部だったこともあり、周りに流されるままに銀行などを志望していました。ところが就職に有利なゼミを選ぼうと学生課に足を運んだら、インターネットについて研究するゼミが新設されることを知ったんです。当時はパソコン通信の時代で、インターネットもブラウザが存在せず、テキストしか表示できませんでした。MOSAICが出るちょっと前の頃です。説明を聞きにいったら講師の先生が28歳と若くて、すごい美声だったんですね。経済学部でインターネットなんて変わっているけど、考え方もしっかりしている。それで「これはなにかある」と思って入ったんです。今考えれば二度目の転機でしたね。一度目は『スペースインベーダー』で、二度目が『インターネット』。

―――学校の課題で作られたんですか?

そうそう。なんでも良いからホームページを作って提出しろというものでした。当時はプロフィールと日記が載った個人サイトがネット上にあふれていましたが、人と同じことをするのも嫌だったので、当時遊んでいた『英雄伝説III 白き魔女』の攻略サイトを作ったんです。課題の提出が終わっても更新を続けていたら、だんだんおもしろくなってきて、課題を提出した後も運営を続け、当時まだ珍しかったアクセスカウンターや掲示板まで実装したんですよ。ただ「勝手にこんなもの作って良いのか」という疑問もあったので、日本ファルコムにメールして問い合わせたんですよね。そうしたら「常識の範囲で判断してください」と回答をいただきまして。じゃあ迷惑をかけずにやっていこうと。実は、それが縁で入社したところもあるんです。

―――そこはもう少し詳しくお聞かせいただければ・・・。

ファンサイトを立ち上げて1−2年たって、長野県に別荘を借りてオフ会をやったんですよ。そこでサイトを通して知り合ったいろんな人と話をして。みんな僕よりずっとゲームに詳しくて、中には現役のゲームディレクターの方もいたんですよね。そこで改めて子供の頃、ゲームセンターの店長になりたいという夢を思い出したんです。もっとも両親はもっと硬い仕事についてほしいと思っていましたから、「これからは終身雇用制度もなくなる」などと説得しまして。ゲーム業界に向けて就職活動をすることを認めてもらいました。

―――もともと日本ファルコムを志望されていたのですか?

そうですね。他のゲーム会社への就職も考えましたが、第一志望は弊社でした。しかも履歴書を送ったら、昔ホームページの件で問い合わせをしたことを、社内で覚えている人がいたんですよ。すごい縁だなと思いまして。ただ自分は技術を持っていなかったので、開発職ではなく、総合職で応募したんです。経済学部だったので簿記や経理の知識はありました。また当時はまだ自社サイトを運営している会社が少ない中で、日本ファルコムはちゃんと公式サイトがあったんですよね。そこでゲーム開発はできないけれど、ホームページ制作なら自分でもできるかもしれない、そんな風に思っていました。

■ゲーム作りは自社でじっくり、水平展開は他社と協業



―――仕事を始められてどうでしたか?

最初のうちは「どうなるんだろう」と感じることがしきりでした。はじめの一ヶ月でLinuxサーバを立ち上げました。「お前がいても戦力にならん」と言われて、秋葉原に研修に行かされたのも、今となっては良い思い出です。だんだんとシステム周りやサーバ管理などを手がけることで、会社の居場所を作っていきました。開発現場にヒアリングしながら、自社サイトで「開発日誌」みたいなコンテンツの更新もしていましたね。マニュアル制作も手がけるなど、少しずつ開発との接点が増えていきました。

―――その頃からゲームのシナリオの仕事も手がけられていますよね。

はい、最初は『英雄伝説III 白き魔女』のWindows版で、追加シナリオとスクリプトの実装を担当しました。それも「一週間でやれ」と言われたんですよ。先輩に聞いたら「スクリプトを覚えるだけで二週間かかる」と言われて、どうしようと。時間がないので効率化を突き詰めようと思って、「どうせシナリオを追加するならゲームの冒頭が一番効果的」「すでにあるスクリプトをコピペして改造しながら実装する」という方針で望みました。おかげさまで、なんとかなりました。

―――御社のゲームづくりを象徴するようなエピソードですね。

弊社は昔から少数精鋭主義で、一人でなんでもこなす「マルチタスク」人材が求められるんですよ。

―――ちょっと話がずれますが、90年代にゲーム会社の多くが急速に事業を拡大させていく中で、御社はずっと少数精鋭のゲームづくりを続けられていますよね。どのような経営判断があったんでしょうか?

今となっては想像するしかありませんが、もともと加藤(正幸、創業者)も大手メーカーから独立して弊社を立ち上げたんですよ。当然、大手ならではの非効率な部分や、フットワークの重さに不満を持っていたと思うんですよね。おそらく出発点はそこだと思います。

―――創業時の思いが今でも続いているということですか?

もちろん会社を大きくしたいという思いはあったと思います。ただ最近のゲーム開発は大作志向・分業志向が進みすぎている点もありますよね。弊社から大手に転職した人間から、「弊社にいた時が一番ゲームを作っている感じがした」と聞いたこともあります。今でも4−50人くらいの規模の会社なので意思疎通が早いし、みんなで意見を出し合えるフラットな企業です。実際『軌跡シリーズ』はそうした環境でなければ、生まれてこなかったと思います。なにしろ一昔前は「打ち合わせをしない」「仕様書を書かない」会社でしたから。そんなことをする暇があったら、スクラップ&ビルドを繰り返したほうが早いというのが共通認識でした。

―――今でもそうなんですか?

いや、さすがに最近はそれだと非効率になってきたので、ちゃんと打ち合わせをして、仕様書も書いています。それでも随所で当時の名残はありますね。それが可能なのも社員数がある程度絞られていて、コンセンサスが取れているからです。そのやり方でした作れないものをなるべく目指しています。

―――その一方で携帯電話向けの移植では、他社との提携も熱心にされていました。

本来であれば全部社内でやるのが一番かもしれません。でも移植をするよりは新作を作りたい人間ばかりですし、加えて人員は限られています。だったら本来のゲームづくりは社内できっちりやる。その上でIPの水平展開は他社様との提携でやる。そういう切り分けだと思うんです。実は『イース』はこれまで最も多くのプラットフォームに移植されたタイトルなんですよ。それができたのも、そうした戦略ゆえだったと思います。

―――2009年には一定の条件をみたせば、ほぼ全ての楽曲が使用料無料・許諾不要で使える「ファルコム音楽フリー宣言」も行われました。

これには音楽著作権をしっかり自分たちで管理したいという考えが背景としてありました。1987年には弊社のゲームミュージックを専門に扱うファルコムレーベルがキングレコードに設立されています。ゲームミュージックのレーベルとしては業界初の試みで、加藤が飛び込みに近い形でキングレコードに営業したという逸話が残っています。

―――当時、自分もアポロン音楽工業でレコードの営業をしていたので、よく存じあげています。

グッズ販売を行う「ファルコムショップ」なども直営店で手がけていました。他にアパレル展開などの構想もあったようです。とにかく自社版権をきっちり管理して、売上につなげていきたい。そのためにはインターネット上の音楽配信についても、本音を言えば規制したい。しかし動画サイトの高まりなどを受けて、すでに規制が不可能な状況になっていました。だったら逆に、自由に使ってもらえるようにしたほうが、自分たちにとってもユーザー様にとっても互いにメリットがあると判断したんです。発表した当日だけで三千件以上の問い合わせがありました。

―――なるほど、そういう経緯があったんですね。

ファルコムは普段「真面目」「堅実」というイメージがあるかもしれません。でも面白そうなことがあれば、突拍子もないと思われることでも、時には即やってしまうところがあります。実は入社後に誰がホームページを立ち上げたのが聞いたことがあります。そうしたら「加藤が仕事の合間に一人で作っていた」と教えられて驚きました。そういった社風なんです。

―――IP展開でいえば地上波でアニメ放送もされていましたね。

「みんな集まれ!ファルコム学園」ですね。第二シーズンまで放映されました。『英雄伝説 軌跡シリーズ』10周年記念作品として企画が進みましたが、自分でもまさか実現するとは思いませんでした。非常にコアな内容にも関わらず視聴者の皆さんからご好評いただき、第二期まで実現できたのは嬉しかったですね。



PCゲームの販売で学んだことがコンシューマでも生きた



―――その後、2006年から家庭用ゲームに進出されます。PCゲームは凍結なのでしょうか?

いえ、今でもSteamでダウンロード販売をしていますし、PCゲームには愛着もあります。ただ自分が社長に就任してから年々売り場の面積が縮小していって、それでもコツコツとPCゲームを作り続けていたところがありました。そんな折、かなり力を入れて作ったゲームがまったく売れず、会社の最低販売本数を更新する事態がありました。それが契機になって、本格的に家庭用メインに舵を切り替えました。

―――そうだったんですか・・・。

ただ最初は低空飛行が続きました。第一弾が『ぐるみん』のPSP移植で、次が『英雄伝説 空の軌跡FC』でしたが、最初はどちらも二万本程度しか売れませんでした。自分たちが思い入れがあるタイトルだけに、コンシューマのお客様に認知されていないことが分かり、こたえましたね。

―――それでも家庭用で続けられたのはなぜですか?

一つには市場動向がありました。当時はニンテンドーDSがヒットしていましたが、自分たちはPSPへの移植を選択しました。市場的にはDSだったのでしょうが、自分たちのゲームはPSPのユーザーに向いているという思いがありました。それをわかって参入したのだから、少し我慢してみようと思ったんです。そのことから、これは弊社ならではだと思うのですが、『英雄伝説 空の軌跡FC』の広告を発売から一年経っても出し続けました。

―――風向きが変わったのはいつからですか?

PSP-2000が発売された頃です。その頃から二作目の『SC』が急激に売れ始めて、それに合わせて『FC』も売れるようになりました。広告を出し続けた効果もあってか、当時ゲームショップで「店頭に置いておけば確実にリピートで売れる」商材という評価をいただいていたようです。そうした評価がPSP-2000にあわせて、一気に受注につながったという感じです。

―――地道な努力が実を結んだんですね。

でも、これはPCゲームで学んだことなんですよ。「広告は出し続ける」「ファルコムのタイトルは売れ方が独特なので、流通に理解してもらうには工夫が必要」などですね。実はPCゲームの頃は『イース』シリーズが稼ぎ頭でした。しかしコンシューマで売れるのは『軌跡』シリーズではないかと思っていました。実際、これを機に『イース』と『軌跡』は売り上げが逆転し、『軌跡』シリーズは新たな看板タイトルとして成長してきました。。

―――御社のタイトルはシリーズを重ねるごとに、少しずつ正常進化していく印象があります。

そこは少数精鋭のゲーム作りとも関係しています。毎回新しい世界観や主人公を登場させて、斬新なゲームが作れれば良いんでしょうが、様々な事情から毎回そういうわけにもいきません。だったら世界観やキャラクターを共有して、シリーズを続けながら丁寧にゲームを作っていく方法はどうだろうと。そういうやり方だからこそできることもあります。大前提として作り続けていれば、クオリティは上げられるはずです。そのため現場にも「継続する方が強い、作り手側が飽きてはいけない」と常々いっています。

―――シリーズを続けることで、新規ユーザーが入りにくくなる恐れもあります。

そのリスクは常に考えていて、一作ごとにさまざまな挑戦をしています。『軌跡』シリーズでも『空の軌跡』『零の軌跡』と比べて、『閃の軌跡』ではぐっと年齢層が下がりました。弊社のファンには8ビット時代からずっと遊んでくれているような、熱心な方も多いのですが、一方で学生をはじめ若い方も増えています。アクティブユーザーにあわせて、常に時代に合った新鮮な要素を入れることが大切です。僕らも若いころ、先輩に「いま作っているゲームが売れなければ、次回作は作れないよ」と言われました。

―――家庭用ゲーム市場が厳しくなる中で、スマートフォンやソーシャルゲームに対する取り組みについては、どのように考えられていますか?

実は今の家庭用の状況って、僕らはすでにPCで一回経験しているんです。他の企業がどんどん撤退していく中で、僕らはずっとPCゲームにこだわっていて、最後は流通さんに「もうPCゲームを売るのは終わりです」と言われたくらいですから。でも減ったとはいっても、今もまだ家庭用ゲームに価値を見いだしてくれているお客様が確実にいて、弊社には家庭用ゲームを作りたい開発者がたくさんいます。この両方の思いは、大切にしたいですよね。ただし、スマートフォンに参入する必要性は強く感じていますし、試験的にアプリを作っていたりもします。そこはかつて、PCゲームから家庭用ゲームに舵を切り替えた時期と似てきてはいます。

―――スマートフォンでの開発の手応えはいかがですか?

努力はしていますが、スマホでファルコムらしいゲームが作れるというレベルまで、まだ到達できていないですね。せっかく出すのであれば、自分たちが胸を張って出せるものにしたいと思っています。よく結婚に例えるんですよ。いくら結婚したくても、異性なら誰でもいいというわけにはいかないですよね。無理をすれば、かえって不幸になりますから。そこは時期もあるだろうし、自分たちの力も蓄えないといけない。厳しい市場で自信のないタイトルで無理に挑戦しても、成功するわけがありません。自分たちの実力と市場の状況でピントがあうよう努力している段階です。

―――アジア圏でも高い人気を集めていますが、今後の海外展開ではどのように取り組んでいきますか?

おかげさまで10年以上PCのパッケージゲームをアジア圏で販売しています。現地のパブリッシャーとライセンス契約をして、ローカライズして売ってもらっています。続けてきたことで認知されているという手応えはありますね。ただ本音をいうと自社パブリッシングしたいところもあります。実際に『閃の軌跡』では自社パブリッシングに切り替えて、なかなかの数字を収めました。一方で北米向けでは、Steamも含めてマーベラスUSAさんと提携しています。ここ1-2年で急に売れ始めていて、実際に『イース セルセタの樹海』のPS Vita版では北米の方が良かったほどです。Steamでは『イースオリジン』が国内以上の成功を収めています。もはや海外市場は無視できない状況になっているので、他社との提携も視野に入れつつ全方位で進めていきたいですね。

歴代『ザナドゥ』はファルコムの節目となる作品



―――最新作の『東亰ザナドゥ』では、はじめて現代が舞台になりますね。

先ほどもありましたが、『軌跡』シリーズが続く中で新規のお客様に手にとっていただきにくい状況もあるかと思います。一方で『閃の軌跡』でお客様の年齢層がぐっと下がったこともあり、この層に対してさらにゲームを手にとってもらうには、どういった題材が良いか考えました。そこから現代モノというアイディアが出てきたんです。もっとも、現代モノはスタッフと10年くらい前から温めていたアイディアなんですけどね。

―――それは意外でした。

当時は社内も「ファルコムといえばファンタジーもの」という認識が強かったですしね。それが『軌跡』シリーズが続く中で、だんだんとキャラクターの衣装や世界観が現代風になるなど、テイストが変わってきました。下地が出来ていたわけです。それで、いざ現代モノをやろうということになったとき、誰かが企画会議で『ザナドゥ』というタイトル案を上げたんですね。それに現代モノであることの象徴として「東京」をつけたら、ピッタリはまった。それで『東亰ザナドゥ』というタイトルが決まりました。そこからいろいろなイメージやアイディアが出てきて、わずか2ヶ月でプロトタイプが完成しました。たぶん知らないうちに、開発現場にも新しいことをやりたいという思いが充満していたんですね。

―――なるほど。

実は『ザナドゥ』は弊社が何か新しいことをする時の節目となるゲームで、PCゲームで40万本の大ヒットを記録した『ザナドゥ』(1985)、PCエンジンに参入した『風の伝説ザナドゥ』(1995)、3DCGの『ザナドゥ・ネクスト』(2005)と、ほぼ10年ごとに新作が出ているんです。まったくの偶然ですが、『東亰ザナドゥ』(2015)もそうなりますね。開発を始めたのが2014年の6月で、発売が9月30日なので、ほぼ15ヶ月です。弊社らしく短期間でクオリティの高いゲームに仕上がると思います。

―――ゲームの場所が立川というのは、御社のお膝元だからですか?

もちろんそれもありますが、立川市はここ数年でかなり再開発が進んでいるんです。第二次世界大戦後に米軍基地ができて、基地が返還されて再開発が始まって、今秋にはららぽーと立川立飛もオープンしますが、一方で当時の商店街や陸上自衛隊の立川駐屯地も残っている。こんな風に急激に変わった街には新旧のひずみがあるはずで、ドラマの場所として最適なんですね。いろんな意味でモチベーション高く作っています。

―――まったくの興味本位ですが、バーチャルリアリティにはどのような印象をお持ちですか?

Oculus RiftやProject Morpheusなどで盛り上がっていますよね。技術陣はすごく興味を持っていますし、自分も同じです。なにしろ全く初めての体験ですからね。僕も『サマーレッスン』をプレーして、女の子に近づかれた時は、恥ずかしくて顔を背けてしまいました。びっくりしたのと、ゲームとしてどう落とし込むか、そのバランスが重要でしょう。いずれにせよ、何か作ってみたい思いはありますね。

―――余談ですがアウトドアがお好きだと伺いました。仕事との接点はありますか?

登山が好きで良く山を歩いています。もともとは父親の影響で子どもの頃から山に連れてこられて、最初はあまりに辛いものだから、泣きながらのぼっていましたが、次第にハマってしまいました。僕は怠惰な人間なので、放っておくとどんどん自堕落に流れがちなんですよ。でも登山では本気で取り組まないと、文字通り命にかかわる状況に直面することが多いんですね。ああ、ここでザイルから手を離したり、足を滑らしたりすると死ぬな・・・という。そういった緊張感を常に忘れないでいたいと考えています。何事も本気で取り組みたいですし、取り組まないとダメですし、でももとが怠惰な人間だから、そういった環境に身を置くことも、時には大事だなと思っています。

―――それでは最後にゲームファンに向けてひとことお願いします。

今年で創業34年目になりますが、創業者の加藤いわく「昔も今もやっていることは同じ」です。「今からスマホゲームに参入なんて遅すぎる」などと言われることもありますが、加藤によると弊社がPCゲームに参入したときも、やっぱり「遅すぎる」と言われたそうです。そこから考えて、何ごとも遅すぎることはないというのが結論です。プラットフォームは変わっても、ゲーム作りに対する姿勢や、皆さんからファルコム流と言われるような部分を大切にして、これからも作り続けていきます。うちみたいな会社があったほうが、ゲーム業界も楽しいと思うんですよ。これからも長く見守ってください。


●取材後記●

私が近藤さんに初めて会ったのは、2011年の東京ゲームショウでのパーティ会場でした。創業社長の加藤(現・会長)さんから近藤さんに代替わりをしたのが2007年でしたので、代表就任からすでに4年以上が経過していました。初対面の印象は想像に反して、お若い方というものでした。というのも日本ファルコムへの私の印象は、PCゲームから創業した歴史のある組織と、加藤さんとの年齢差を感じたのが率直なところでした。

近藤さんは社長として、家庭用ゲームコンテンツへの展開、また「軌跡」シリーズの充実、コンテンツの水平展開など近藤社長の積極的な展開が結実し、それが従来のファルコムの伝統に新規性とラインナップの充実をもたらしました。

今回の、近藤さんのインタビューを通じて感じたことは、自分にできることに真剣に取り組み、常にベストを尽くすという日本ファルコムの姿勢を改めて感じることができました。

9月発売の「東京ザナドゥ」は日本ファルコムの所在地である立川が舞台になっています。そこは、古いものと新しいものが混在する街です。日本ファルコムの変化は、ある時に街の景色が変わることに似ているように思います。街角にあった古い家屋やビルが姿を消します。そこにあったものの記憶は少し薄れていきますが、そこに新しく出来た風景は時間は掛からずに風景に溶け込みます。常に自らの考える良い方向への変化を恐れずに進むというものです。

近藤さん、日本ファルコム広報様ならびに編集スタッフの皆様に感謝を申し上げます。

《黒川文雄》

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