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エジソンの発明にさかのぼるアーケード産業〜日本デジタルゲーム学会基調講演

日本デジタルゲーム学会の2011年度年次大会が立命館大学で開催されました。デジタルゲームの国際学会「GAMEON ASIA」も同時開催され、アーケードゲーム前史から最新のゲームAIまで、百年以上にもわたるスパンでさまざまな議論が展開されました。

ゲームビジネス その他
「パックマン」の岩谷徹氏(左)と、「ゲームマシン」の赤木真澄氏(右)
  • 「パックマン」の岩谷徹氏(左)と、「ゲームマシン」の赤木真澄氏(右)
  • 貴重な資料をスライドで紹介
  • 会場は研究者、学生、業界人など約150名の会員で埋まった
  • 自らの発明を娯楽用途に使われることを嫌がったエジソン
  • イヤホンで音声を聞くフォノグラフ
  • 初期のアーケードには体重計や握力計などもあった
  • 1930年代に大流行したピンボールとアーケード
  • 初めてフリッパーのついたピンボール「ハンプティダンプティ」
日本デジタルゲーム学会(DiGRA JAPAN)の2011年度年次大会が2月25日・26日、立命館大学で開催されました。デジタルゲームの国際学会「GAMEON ASIA」も同時開催され、アーケードゲーム前史から最新のゲームAIまで、百年以上にもわたるスパンでさまざまな議論が展開されました。

DiGRA JAPANの基調講演では、業界紙「ゲームマシン」の元編集長で、著書「それは『ポン』から始まった−アーケードTVゲームの成り立ち」で知られるアミューズメント通信社の赤木真澄氏が「アーケードはどのようにして生まれたのか」と題して講演を行いました。またコーディネーターとして「パックマン」の生みの親として有名な元ナムコの岩谷徹氏(東京工芸大学)も登壇し、適時補足が挟まれながら進行しました。

■エジソンの思いとは別の場所で拡大したアーケード市場

はじめに赤木氏は「アーケードゲームの成立過程は現在も不明な点が多い」と前置きしつつも、19世紀に産業革命で社会生活や企業活動などが大きく変化した点を背景に上げました。産業化と都市化のうねりの中で、19世紀末に発明王エジソンがアメリカで蓄音機の原型となる「フォノグラフ」を発明します。大きな可能性を感じたエジソンはすぐにフォノグラフ社を設立し、再び発明に没頭。続いて白熱球の発明に成功しました。

ところがフォノグラフは、エジソン自身が娯楽用途に使われることを敬遠したこともあって、市場がなかなか広がりませんでした。講演の記録用途などで売り出しましたが、市場は微々たるもの。その一方で街中にフォノグラフを設置し、コイン(5セント)投入式で音声などを聞かせるニッチビジネスが誕生していきます。

一方で白熱球は映画産業の礎となりました。現在も続くスクリーン上映方式を発明したのはフランスのリュミエール兄弟ですが、エジソンも箱の中でフィルムを上映し、手回しで再生する覗き見方式の「キネトスコープ」を推進。やがてフォノグラフとキネトスコープが融合して、映像と音が楽しめる「ミュートスコープ」が誕生しました。

その後、これらの発明品を集めて、コインオペレーション方式で客に遊ばせるロケーションビジネスが都市部で拡大する中、エジソンもまた事業化を進めていきます。1904年にアメリカで開催されたセントルイス万国博覧会では、MILES EDISONIAブースが出展され、体重計やミュートスコープなどが展示されました。一時は楽器の自動演奏などにお株を奪われていたフォノグラフも、AT&Tが電気録音を発明して再ブレイクします。

赤木氏はこうした流れが背景となって、街中に娯楽機械を設置したロケーションビジネスが定着し、アーケードゲームの礎となったと論じました。1905年の初期アーケードの写真では、すでに握力計やパンチングバック、ミュートスコープなどが設置されていることがわかります(アーケードゲームの原点は体重計!=Wiifitの元祖)。

また当時大ブレイクを見せていた短編映画館に押されつつ、ミュートスコープもしぶとく生き残っていました。850枚のフィルムで1分少々の映像をのぞき込むだけのシンプルなものでしたが、手回しで再生速度を変えられる調書がありました。キラーコンテンツは女性が服をどんどん脱いでいく映像(ストリップ!)だったとか。ハードとソフトとインタラクティビティの重要性を改めて示唆するエピソードかもしれません。

■アーケードの拡大とピンボール、そして日本への輸入

その後、こうしたロケーションは、遊びのための場所=「アーケード」と呼ばれるようになっていきます。もっとも、当時からカジュアルなギャンブル場であり、大人向けの 社交遊技場という側面も併せ持っていました。当初人気を集めたのがビンゴマシン。1930年代になるとピンボールが大ブームとなりますが、景品や換金などが流行したため、当局の規制の対象となってしまいます。

ところが戦後、ピンボールにフリッパーが加わり、運だけの遊具から技術を競える遊具になったことで、再び大流行となりました。アーケードはアメリカを象徴する文化の一つにまで成長。そして、ここからエレメカが登場し、ビデオゲームへとつながっていくことになります。

一方、日本でも戦前からこれらの遊具機が輸入されていました。会場では日本娯楽機製作所と千代田組による、大正期の貴重な遊具カタログをスライドで紹介(姫路の歴史博物館に保管)。カタログでは木馬やミュートスコープに混じって、大型の射撃ゲームなども掲載。一方で香水噴射機や飲料水の自動販売機なども見られます。当時のアーケードには、これら最先端のコインオペレーション機器が並び、人々を楽しませていたのでしょう。

戦後になると、これらの機器が本格的に街中に普及していきました。アーケードの第1号はセガの前身だったローゼン・エンタープライゼスによるもので、当時はエレメカのガンゲームが多かったことから、アーケードはガンコーナーと呼ばれていましたとのこと。一方でエレメカ時代のドライブゲームとしては、京都の関西精機製作所による「ミニドライブ」などが有名です。

もっともエレメカはメンテナンスが大変で運営者が限られ、売上もそこそこだったため、メダルゲームが登場してきました。1969年にシグマ企業が、メダルゲーム専門店の第1号となる渋谷カスタムを開店させ、大きな話題を集めます。まさに1972年に「ポン」が誕生する前夜のことで、業界が拡大したのは良かったのですが、残念ながらギャンブルとの結びつきを払拭できず、1985年の風営法改正で規制対象となってしまいます。

赤木氏は「1980年代後半から業界でゲームセンターの健全化が進んだが、昔から明るくて楽しい店舗はあったため、しっくりこない」と説明。岩谷氏も「18時以降、ゲームセンターへの子供だけの入店は禁止されているが、書店には入っていいというのは、同じコンテンツ産業なのに納得しにくい」と懸念を示しました。

最後に赤木氏は「家庭用ゲームなどにおされてアーケードゲームは縮小が続いているが、人々が街中で集まる場所における遊具機器のニーズは不変だと思う」と述べ、奮起を促しました。また岩谷氏は「白熱灯から映画産業が生まれ、フォノグラフから音楽産業が生まれたように、娯楽産業は常に外部の技術革新を利用して拡大してきた」と補足しました。

なお赤木氏は講演の冒頭で参考資料として下記の書籍を紹介しました。いずれも海外のAmazonで通販可能ですので、興味のある方は購入してみてはいかがでしょうか。

All About Pinball
Juke Box Saturday Night
Automatic Pleasures: The History of the Coin Machine
Antique Arcade Games: Mike Munves 1939-1962
Slot Machines and Coin-Op Games: A Collector's Guide to One-Armed Bandits and Amusement Machines
《小野憲史》
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